2011年09月13日

はじめに(全体概略)

9月3日・4日の土・日に、東京シューレは3か所の被災地へ行きました。

(現地派遣を第6・7・8回分とさせていただきます。)

(1)岩沼市へ、子ども打楽器隊発表
(2)気仙沼市へ 不登校親の会参加
(3)女川町へ 子ども学習支援他

以下、報告が整ったものから報告させていただきます。
posted by shuresp at 19:47| 第6〜8回現地派遣報告

気仙沼報告(1日目)親の会

奥地圭子


気仙沼は、大地震・大津波に加えて大火災が起こり、死者・行方不明は1400人に上りました。気仙沼には、19年前から、不登校の親の会が活動しています。会の代表の加藤美智さんはお元気で、言えもただ第二あったので大丈夫でしたが、不登校の子ども・若者はどうしているのか、親の方々はどんなご様子なのか、気がかりにしていました。現地訪問したい旨ご連絡をした際、せっかくなら、これまで会場がなく開けなかった会をやってみようと町会会館を借り、半年ぶりに親の会が開かれました。父2人、母5人、奥地・野村含めて9人が膝をつき合わせての会合となりました。
 電話で確認しあっていたものの、改めて無事を喜び合っておられ、3・11当日の大変だった状況が次々と語られていきました。気仙沼湾にはすぐ近くに大島がありますが、船が全くなくなり、母親は4日目まで帰宅できなかったそうですが、ライフラインが全てダメな中、不登校の子どもたちは水くみ、買い物をかいがいしくやり、夜昼逆転の子が早寝早起きし、家族とともにご飯を食べるという風によい変化があり、復旧とともに元に戻ったが以来「いざというときは動けるのだから見守っていよう」と価値観が変わったと話が出ると、「うちもだよ」という話、ひきこもりだった人が外に出た話が続きました。しかし、親の会の方の知り合いの不登校の子、ひきこもりの人が逃げないでなくなった話、学校の先生が不登校のこの行方がわからないと言っている話など胸が熱くなる話も多くありました。
皆さん共通なのは、口々に、被災後価値観が変わって「生きているだけでいい」と思えるようになったそうですが、複雑なのは、それはなくなった方に向けては言えず「助かってよかったじゃない」と言われるから、とのことで、現地は本当に大変だと実感しました。
 また、避難の話で印象的だったのは、あるお父さんが「大きい会社の従業員はすぐ逃げられたが、小さい会社や個人商店は社長に気を遣い逃げ遅れ、犠牲が多かった」という話には、考えさせられました。
 会はこれを機にできるだけ再開していくそうです。
posted by shuresp at 19:44| 第6〜8回現地派遣報告

気仙沼市 報告(2日目)

気仙沼市 2日目
文責 野村芳美

次の日は、加藤さんご夫妻に、気仙沼市災害ボランティアセンター(気仙沼市社会協議会ボランティアセンター)と被災がひどかった場所を車で案内していただきました。
ボランティアセンターでは1時間強に渡わたり、ボランティアセンターの役割についてお話を伺いました。この半年間の主な役割としては、瓦礫の撤去や泥かき、支援物資の仕分けなど、誰でもできるボランティア活動をしてくれる人たちを集め、必要な場所に行ってもらうという震災支援の仕事で、7月末までに関わってくれた人数は述べ31000人にのぼるとの事でした。しかし半年がたち、これからは「震災支援」から「生活支援」へ局面が変化し、今後は住民のいろいろな要望を聞き、それを各機関へつなげ、住民のコミュニティーづくりや自立支援が主な役割となっていくというお話でした。
ボランティアセンターでの話の後は、加藤さんご夫妻に被災地を車で案内していただきました。まず、加藤さんのお父さんがお勤めだった「向陽高校」もある岩井崎の浜に行きました。ここは未だに瓦礫が残る地でした。向陽高校は当日1/3の生徒が居り、地震発生後はすぐ近くのお寺に避難。しかしすぐそこも危険となりさらにその上を目指して避難したとのことです。波は校舎の4階までにおよび、流された家が校舎の4階にひっかかり、そのためそこに住んでいた方が助かったという場面も合ったようです。
その後、タンクの爆発などがあった海岸線のそばなども通りました。当日は津波に加え、火災なども起こった地域で、この地域にいた人は、何度も起こるタンクの爆発音やその後の火の海に大変な恐怖だったという話も聴くことができました。また、津波により海から陸に打ち上げられた第18共徳丸が陸にそのままの姿で残っていました。これは後世にこの震災を伝えるために残されているとのことです。
帰り道の途中になるので陸前高田にも行きました。瓦礫はだいぶ片付けられた印象でしたが、町がすっぽり消えた状態になっており、再建の道のりの遠さを感じました。また、海からかなり離れたところまで水が来たことも分かり、自然のすごさも改めて感じた今回でした。


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気仙沼ボランティアセンター(奥地さんと職員の方)


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気仙沼ボランティアセンター


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向陽高校


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陸に上がった舟

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海岸沿い

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陸前高田
posted by shuresp at 19:01| 第6〜8回現地派遣報告

2011年08月06日

「ふくしま」の声を聞く −郡山現地調査−

〔奥地圭子・朝倉景樹〕


 福島のことは、気になりながら、7月になってやっと郡山を訪問することができた。福島登校拒否を考える皆さんにとてもお世話になった。

 福島の不登校の子どもを持つ親の会の方に、避難所と仮設住宅を案内していただきました。

 私達が訪問した避難所は県の複合イベント施設のビッグパレットふくしま(福島県産業交流館)です。大小さまざまなホールや会議室などがある大きな施設です。

 ビックパレットふくしまは福島第一原子力発電所から近い富岡町と川内村が役場の機能を移しているところです。避難所としても規模が大きく、最も人が多かった時は2500人もの人が非難されていました。私達が伺ったのは、被災から4ヶ月以上経った7月28日でしたが、約250人の方がおられました。この日の時点でも、通路部分に生活スペースを持っておられる方もいて、一時は廊下まで一杯の人が溢れていたという状況が想像されました。

 生活スペースは部屋によっては高いパーティションで区切られていて、プライバシーが保ちやすくなっていましたが、別な場所では30センチほどの仕切りで生活部分を区切っている方たちもいました。そして、公共スペースも広く取られるようになっており、職業斡旋のコーナーや、ボランティアを募るコーナーなどもありました。

 ビッグパレットには広い駐車場がありますが、地元郡山のナンバープレートでなく、富岡町や川内村の地域のいわきナンバーの車がたくさん駐車していました。この避難所で暮らしている方の車はもちろん、ホテルなどの宿泊施設で避難生活をされている方々がそこに十分な駐車スペースが無いために、ビッグパレットの駐車場に車を置いている人もあるのだと聞きました。近くのあるホテルでは50室のうち30室に被災者の方が入出しているとのことでした。1日5000円の費用を行政が負担しているとのことでした。

 2箇所の仮設住宅にも案内していただきました。そのうちの一つはビッグパレットの北側にある仮設住宅で2DKの住宅が約150戸建てられているところです。入居はもう始まっていました。案内してくださった方の話では、希望が集中する仮設住宅とあまり希望が無い仮設住宅とがあるそうです。その違いは、富岡町や川内村の臨時の役場のようなところから離れてしまうと情報も物もこなくなってしまうのではないかと考える人が多いのではないかと言うことでした。

 避難所になっているビッグパレットのピロティのようなところには、その時々の放射線の値が表示される電光掲示板もあります。行政の発表では1マイクロシーベルト前後ですが、この電光表示は室内を測っているため、一桁小さい値が表示されていました。福島県中央部にあたる中通の中核都市、郡山は原子力発電所がある浜通りから人が避難してくるところになっています。しかし、同時に学校の校庭の土を削って放射線量を減らす必要を感じる場所でも有り、人々が放射線の影響を意識しながら、不安を持ちながら暮らしていると感じました。

 親の会が運営している「んだねカフェ」で、会につながっておられる計6人の方のお話を聞くことができた。それは、地震・津波のすさまじさを石巻や牡鹿半島で見てきたのだが、それとはまた異なる重さに圧倒されてきた。福島原発とは、50qも離れている郡山市でさえそうなのだ、とあらためて思った。

 3月11日は、雪が降り、とても寒い日だったそうだ。

 Aさんは、夜勤明けで自宅に戻り睡眠をとって起床したとき、左右に大きな揺れがきた。おさまったと思ったらまたきた。カギが壊れて、家中の窓や戸が自然にあいてしまった。近所の家にも手伝ってやっと夜8時ごろ職場のホテルにつくと水道管がだめになってジャージャーもれて、営業もできないので、無料で宿泊してもらうことになった。3日後テレビで原発の水素爆発を知った。始めはそんなに深刻と思わなかった。50q離れているから、と。それから2時間は、水がこないので給水車で並んだり、ガソリンがなく動けなかった。

 今は、こう思っている。「福島の野菜も果物も避けられている。でも、東京の人間が安全なものしか食べないのはおかしい。本当は安全なものを福島人にこそ食べさせてほしい。東京が福島を引き受けてくれていいじゃないか、と思う。だって、東京の電力を賄うためにあんな危険なものを置いたんだから」と。

 Bさん夫妻は、20代のとじこもりの息子さんが家にいる時大地震がきたそうで、自分たちは車を運転していて、ハンドルもきかない状態になった。やっと帰宅すると、息子は庭にでていた。その日まで、口を聞かなかったのに、地震のおかげで、一緒に寝るようになったし、会話が戻った。強迫神経症や家庭内暴力がひどくて悩んできた時期もあった。でも、今日も「郡山、行ってきたほうがいいよ。」と言ってくれた。息子は、原発に敏感で、ネットで調べるなどして詳しい。「どうせ俺たちはモルモット」「逃げたほうがいい」といつも言っている。

 農家なので、悩む。キャベツ農家で有機でやっている人が自殺した。気持ちわかる。うちは5000ベクレル以下なので米を作っていいのだがやはり作るかどうか迷った末、今作っている。果樹を作っている家は、樹皮を1枚1枚はがしていた。桃だって売っているが、分からない。悲しいけれど、スーパーでは、地元のもの程注意している。いつもいつも頭の中が面白くない。野菜作っても捨てるしかない。

 Cさんは、外出先からマンション9階の自宅に戻った時、TVで緊急地震速報を聞き、まもなく、あっちよろよろこっちよろよろする大変な揺れがきた。部屋中のものが落ち、倒れ、外に出られなかった。原発のことはTVで知った。三春の人たちは、ヨウ素剤の配布が早くて持って逃げてきたので、自分も家族に飲ませた。

 Dさんは、職場で地震に遭い、5時に職場を出てやっと帰宅した。閉じこもりの20歳の息子が家にいたが、外に飛び出して助かった。壁は落ち、3日間電気もこず、外へ泊めてもらい、戻ってからは、3人で一部屋に寝るようになった。水が出ない間は、トイレにとても困った。14日の爆発は、外を歩いている時、通りがかりのおじさんが「大変だ、何とかがくるぞ。すぐに家に入れ。雨にぬれるな」と大声で言っているので知った。子どもを安全な所へ避難させ、親は仕事上残っている人、一家中で思い切って山形へ行ってしまった人もいる。「原発離婚」がすでにある。「県外に出ていくなら離婚して出ていけ」と言われたり、家族会議にかけられたりもある。初乳を飲ませるかどうかで悩んでいたり、将来結婚適齢期になっても福島出身者ということで断られる可能性もある。

 Eさんは、保育園に勤めているが、運動場に重機が入り、表土を削っていった話、ガラスに強くホースの水をあて除染した話、効果があるとして、2ℓのペットボトルに水を一杯入れ、2列に窓際にぎっしり並べている話をされた。学校は、4月10日に始まり、他校を借りて始めたところもある。運動できなくて、階段ダッシュで運動している学校もある。幼稚園の子どもが他県へ多く出ていき、経営難になっている。学童保育では外遊びをやっていたが、親が放射能が心配でやめてくれ、というのでできない。幸いなことは一つあって、県議会が超党派で、全員一致で「脱原発」を決めてくれ、知事が脱原発を宣言できたことだ。

−以上のような状況の中を生きる事は大変だ。福島は世界中に悪い名として印象づいたが、東京のための電力なのだから「東京原発」という名称だったらどうだったろう」という話。「どんな支援を望むか」の質問に「それは、こっちが考える事なんだろうか。」という答えが心に残った。
posted by shuresp at 09:28| 第3回現地(福島)報告

2011年07月31日

現地報告(長井)

この場所にあるのは好意だけだ−石巻専修大学ボランティアセンター



初日の夕方、石巻専修大学のボランティアセンターに向かった。石巻地域のボランティアのメッカである。駐車場の一角にとても大きな倉庫があり、作業用一輪車、土のう袋などが整然と置かれている。私たちは、寄付された自転車を4台届けた。
ミーティングは夜7時半に始まった。専修大学の一室に100人を越える人が集まる。20代から40代くらいが主だろうか。男性が約8割を占める。
正面に置かれたホワイトボードには、炊き出し、マッドバスターズ(泥出し)、リラクゼーションといった活動ごとに関わる団体が書かれ、その日の活動と参加人数を報告するという形で会が進行する。会の終わり近く、一人の女性が声を上げた。虫が出てきているので「支援者の支援」として殺虫剤を配るとのことだった。

「この場所にあるのは好意だけだ」と思った。そして、ここにいる人々の向こうで、日々、もっとたくさんの人が動いている。彼らは本当に多くのことを成し遂げてきた。石巻市街地の瓦礫はたった1ヵ月半できれいになくなった。
「誰かを助けたい」というとてもシンプルな思いからはじまって、具体的に人を助ける。NPOや社会的企業とつながる発想だ。「自分だけ」のためではなく、人や社会を自然に思ってしまう気持ちから発想して、活動していく。もしかしたら、自分の中から湧き出てしまう、隣人を思う気持ちのままに助け合って生きていくことが、生活していくことが可能かもしれない。
遠い宮城で、自分の進みたい道を照らす、小さな光を見つけた。
posted by shuresp at 17:37| 第2回現地派遣報告