2011年09月19日

震災支援プロジェクト 岩沼市報告〜子どもから2

震災支援プロジェクト 感想
東京シューレ王子高等部 ケリー・ブランドン

僕が宮城に行った理由。それは、何かを感じるためだ。
ニュースやテレビで何回も何回も津波や地震の様子を見ていたけれど、何一つ悲しみも苦しみも感じられなかった。

だから実際に自分の目で見て、何かを感じたかった。

津波の現場にいって、周りを見渡すと、曲がりくねった木やボロボロの一軒家、他の家のゆからしいものがいっぱいあった。

大変なのは知っているけれど、まだ悲しみはあまり実感できなかった。
ただ津波で全てが無くなっている事に少し衝撃を受けて、悲しみを感じれない自分が凄く嫌になった。

そして次の日僕らは音楽を演奏した。
音楽を聞いて会場にいた人々が笑顔になってるのを見て、何か強いものを感じた。僕も困った人や悲しんでいる人達を、音楽で、少しの間でもハッピーな気持、幸せになってほしいと思った。

宮城に行って、僕自身が悲しみや苦しみを感じたかったのに、人を幸せにさせたいという気持ちをものすごくもらった。

行けて凄く感謝してます。ありがとうございました。

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posted by shuresp at 09:17| 第6〜8回現地派遣報告

震災支援プロジェクト 岩沼市報告〜子どもから1

震災支援プロジェクト 感想
東京シューレ王子高等部 島 夢美

 関東からあっという間に仙台市に着いた。車に乗って仙台市内の荒浜地区まで行く景色には、建物の壁の表面がはがれていたり、もっと進んでいくと、一面に家がない光景になっていた。
ここに家が立ち並んでいたことや、暮らしていた人たちがいたことが想像できなかった。
 震災から約半年が経って、ガレキ撤去も進んでいてもっとひどい状態だったんだと想像した。お皿の破片が砂に埋もれているのを見て、確かに、この場所に人の生活があったんだと思うことで、気持ちがいっぱいだった。
 岩沼市民会館の会場に到着して、目の前には仮設住宅が建っていた。
 小さい子が走り回ったり、公園で遊ぶ姿が印象的で、目が合うと「こんにちは」とあいさつをしてくれて、自分が励まされた気持ちにもなった。
 2日目に「打楽器叩き隊」の演奏を3曲して、今まで一番少人数の演奏だったけど、見ている人たちにこれまで自分たちが感じてきた音楽の楽しさを伝えられたら、それが今の自分に出来ることなんだと思った。
 一緒に演奏したグループ・サルサガムテープの曲にもあるように、人はバラバラで考えてることも、居る場所も違うけど、最後の合同演奏で、見ている人たちも、楽器を鳴らして音楽で一つにつながれた時間になったと想う。
 泊まったゲストハウスでも人とのつながりを感じたし、今回の機会とたくさんの人からもらった力も一緒に、これからも考えながらやっていきたいと思えた2日間でした。
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posted by shuresp at 09:13| 第6〜8回現地派遣報告

2011年09月13日

はじめに(全体概略)

9月3日・4日の土・日に、東京シューレは3か所の被災地へ行きました。

(現地派遣を第6・7・8回分とさせていただきます。)

(1)岩沼市へ、子ども打楽器隊発表
(2)気仙沼市へ 不登校親の会参加
(3)女川町へ 子ども学習支援他

以下、報告が整ったものから報告させていただきます。
posted by shuresp at 19:47| 第6〜8回現地派遣報告

気仙沼報告(1日目)親の会

奥地圭子


気仙沼は、大地震・大津波に加えて大火災が起こり、死者・行方不明は1400人に上りました。気仙沼には、19年前から、不登校の親の会が活動しています。会の代表の加藤美智さんはお元気で、言えもただ第二あったので大丈夫でしたが、不登校の子ども・若者はどうしているのか、親の方々はどんなご様子なのか、気がかりにしていました。現地訪問したい旨ご連絡をした際、せっかくなら、これまで会場がなく開けなかった会をやってみようと町会会館を借り、半年ぶりに親の会が開かれました。父2人、母5人、奥地・野村含めて9人が膝をつき合わせての会合となりました。
 電話で確認しあっていたものの、改めて無事を喜び合っておられ、3・11当日の大変だった状況が次々と語られていきました。気仙沼湾にはすぐ近くに大島がありますが、船が全くなくなり、母親は4日目まで帰宅できなかったそうですが、ライフラインが全てダメな中、不登校の子どもたちは水くみ、買い物をかいがいしくやり、夜昼逆転の子が早寝早起きし、家族とともにご飯を食べるという風によい変化があり、復旧とともに元に戻ったが以来「いざというときは動けるのだから見守っていよう」と価値観が変わったと話が出ると、「うちもだよ」という話、ひきこもりだった人が外に出た話が続きました。しかし、親の会の方の知り合いの不登校の子、ひきこもりの人が逃げないでなくなった話、学校の先生が不登校のこの行方がわからないと言っている話など胸が熱くなる話も多くありました。
皆さん共通なのは、口々に、被災後価値観が変わって「生きているだけでいい」と思えるようになったそうですが、複雑なのは、それはなくなった方に向けては言えず「助かってよかったじゃない」と言われるから、とのことで、現地は本当に大変だと実感しました。
 また、避難の話で印象的だったのは、あるお父さんが「大きい会社の従業員はすぐ逃げられたが、小さい会社や個人商店は社長に気を遣い逃げ遅れ、犠牲が多かった」という話には、考えさせられました。
 会はこれを機にできるだけ再開していくそうです。
posted by shuresp at 19:44| 第6〜8回現地派遣報告

気仙沼市 報告(2日目)

気仙沼市 2日目
文責 野村芳美

次の日は、加藤さんご夫妻に、気仙沼市災害ボランティアセンター(気仙沼市社会協議会ボランティアセンター)と被災がひどかった場所を車で案内していただきました。
ボランティアセンターでは1時間強に渡わたり、ボランティアセンターの役割についてお話を伺いました。この半年間の主な役割としては、瓦礫の撤去や泥かき、支援物資の仕分けなど、誰でもできるボランティア活動をしてくれる人たちを集め、必要な場所に行ってもらうという震災支援の仕事で、7月末までに関わってくれた人数は述べ31000人にのぼるとの事でした。しかし半年がたち、これからは「震災支援」から「生活支援」へ局面が変化し、今後は住民のいろいろな要望を聞き、それを各機関へつなげ、住民のコミュニティーづくりや自立支援が主な役割となっていくというお話でした。
ボランティアセンターでの話の後は、加藤さんご夫妻に被災地を車で案内していただきました。まず、加藤さんのお父さんがお勤めだった「向陽高校」もある岩井崎の浜に行きました。ここは未だに瓦礫が残る地でした。向陽高校は当日1/3の生徒が居り、地震発生後はすぐ近くのお寺に避難。しかしすぐそこも危険となりさらにその上を目指して避難したとのことです。波は校舎の4階までにおよび、流された家が校舎の4階にひっかかり、そのためそこに住んでいた方が助かったという場面も合ったようです。
その後、タンクの爆発などがあった海岸線のそばなども通りました。当日は津波に加え、火災なども起こった地域で、この地域にいた人は、何度も起こるタンクの爆発音やその後の火の海に大変な恐怖だったという話も聴くことができました。また、津波により海から陸に打ち上げられた第18共徳丸が陸にそのままの姿で残っていました。これは後世にこの震災を伝えるために残されているとのことです。
帰り道の途中になるので陸前高田にも行きました。瓦礫はだいぶ片付けられた印象でしたが、町がすっぽり消えた状態になっており、再建の道のりの遠さを感じました。また、海からかなり離れたところまで水が来たことも分かり、自然のすごさも改めて感じた今回でした。


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気仙沼ボランティアセンター(奥地さんと職員の方)


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気仙沼ボランティアセンター


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向陽高校


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陸に上がった舟

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海岸沿い

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陸前高田
posted by shuresp at 19:01| 第6〜8回現地派遣報告