2011年09月13日

震災支援プロジェクト 岩沼市報告

<震災支援プロジェクト 岩沼市報告>
東京シューレ王子スタッフ 萩原美奈子

今回、東京シューレ王子の打楽器講座講師、梶原徹也さんの声かけで、9月3〜4日宮城県岩沼市でおこなわれた、宮城県手をつなぐ育成会、日本発達障害福祉連盟主催の第48回発達障害福祉月間 中央記念行事「みやぎ手をつなぐ夏祭り」に東京シューレ王子打楽器叩き隊有志メンバーの子ども・OG4名とスタッフ2名で参加してきました。震災支援では初めてシューレの子ども達が被災地に行き、地元で被災された方、障がいをもった方と音楽で交流をしてきました。
 
3日の初日は、お昼に仙台に到着し、仙台市で津波により沢山の犠牲者のでた荒浜地区に行き、皆で被災された方々の御冥福を祈り、手を合わせてまいりした。私が5月に荒浜に訪れた時より、ほとんど瓦礫は片付けられていましたが、今回は何もなくなっている広くどこまでも見渡せる光景を目にし、生命について改めて考えさせられました。今回のメンバーも、この光景を目のあたりにし、いろいろな感情と衝撃を受けたようです。岩沼市の会場までは、海岸線を車で走り、畑に漁船が横たわっていたり、津波で被害にあった家を見ながら会場入りしました。車内ではみんな無言で変わりゆく街の景色を見ていました。

 4日のライブ本番は、岩沼市民会館でおわれました。岩沼市は100人の方が津波でお亡くなり、家を失った方も沢山おられます。そして岩沼市民会館も6月末まで避難所でした。市民会館の周辺は仮設住宅が建ち並び、仮設に住む方々や、宮城県のいろいろな方が沢山会場に足を運んで下さいました。小さい子どもから地域のお年寄りまでいて、とてもにぎやかでした。打楽器叩き隊のメンバーも、アーティストのかしわ哲さん、梶原徹也さん率いるサルサガムテープのみなさんとステージに立ち沢山の刺激を受け、地域の皆さんと音楽で一緒に汗を流し、逆に現地の方々からパワーを頂き、楽しいライブができました。

最後に、このような機会をつくって下さった、かしわさん、梶原さん、そして宮城県手をつなぐ育成会の皆さん、日本発達障害福祉連盟の皆さんに心から感謝いたします。ありがとうございました。

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(このあと参加した子どもたちからの文章も、アップしていきます)


posted by shuresp at 19:54| 第1回現地派遣報告

2011年05月16日

第1回現地派遣報告<雄勝半島 立浜地区>

IMG_8875.JPG雄勝半島立浜地区 津波でみんなもっていかれた

震災支援の3日目は、雄勝半島でのボランティア作業だ。河北ボランティアセンターに集まった人々と合わせて、総勢70人、車25台の大集団である。

道すがら、津波の被害で壊滅した集落をいくつも通り過ぎた。
到着すると、私たちのグループは漁師の今野さんの案内で、消防団のポンプ小屋の片付けに向かう。
小屋は大小の瓦礫で満たされ、一日の前半は、これを掻き出すことに費やした。作業を進めていくと、瓦礫の山は冷蔵庫やこたつや畳など、破壊された「生活」だということに気づく。

今野さんは現在、車で2時間離れた避難所にいる。
食事は一日、おにぎり2個と缶詰などしか配られず、炊き出しは4回しか来ていないと言う。
地震の時は、集落のほとんどの人が避難したが、指定の避難場所にも水がきたので、さらに奥に逃げた。
立浜地区の48戸は、一戸を残して全て流された。
地震で家のものが多少壊れたりしたが、津波でみんなもってかれっちまった、と今野さんは言う。

この立浜地区では、半数が漁業に関わっている。
ホタテやかきなどの養殖が盛んで、年間3億円を売り上げる。
しかし養殖設備は、この津波でほぼ全部が流された。
養殖の種付けは、例年6月に行う。そのために必要な海の中に残る瓦礫の撤去が、ようやく始まろうとしている。
posted by shuresp at 22:19| 第1回現地派遣報告

2011年05月14日

第1回現地派遣報告<フェアトレード東北>

5月2日、石巻市蛇田のNPO法人フェアトレード東北を訪問した。
この法人は引きこもり・不登校・発達障害・依存症・うつ病・摂食障害などの方々への支援活動を行う団体である。

3月11日震災当日、メンバーの方たちは体育トレーニングの最中で外のスポーツ施設に出かけていた。
引率スタッフは1名、子ども・若者は17名であった。
電話がつながらず、親への連絡もつかないままで、みんな3日間かけて手をつないで、事務所のある場所まで帰ってきたそうだ。

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とにかく震災後2週間は食事を取るということが大変だったという。
水びたしになったレトルト食品を、井戸水で洗って食べるなどしてしのいでいたそうだ。

電話がつながったのが1週間後、行政が入ってきたのは3週間後で、このあたりの地域は200戸あるうち無事に残ったのは3戸だけだった。

避難所に入っていたが、そこが居にくく、1人でふらふら歩いていた高齢者が、他の避難所に行ったら、門前払いになったという話もあった。

自分の家の1階はめちゃくちゃだが、2階部分はかろうじて住めるという人は避難所に入れない。
また自分の住居にすんでいるが、支援物資をもらえるという情報がなく、数日食事を取っていない、という人もいた。

避難所の中でも支援物資やボランティア体制に差があり、また地域そのもののも相当差があることが実際行ってみてわかった。フェアトレード東北では、さまざまな支援から「はじかれた」人たちを支援する、今困っていることをすぐに対応する、ということに徹していた。しかい一団体がやれることには限界もあり、今後、行政の支援体制を整える仕組みが早急に必要と感じた。
posted by shuresp at 22:29| 第1回現地派遣報告

第1回現地派遣報告<石巻市>

河北ボタンティアセンターを出た後、私たちは石巻の市街地に向かいました。

市街地は、何とか車だけは通れるようにした、そんな感じでした。
道の両側には壊された家、家財道具、流された車などの瓦礫の山がうず高く積まれ、信号機もまだ機能しておらず、道路のあちらこちらに地震による段差がいたるところにありました。
この先の復興への長い道のりを感じずにはおれない、そんな状況でした。

そのような街中をとおり、日和山公園へと行きました。
そこは小高い山になっており、市内が一望できる場所です。山の上には緑が茂り、山桜が咲き、とてものどかな、気持ちのいい場所でした。

しかし、そこから、目に飛び込んできた市街地は津波によって何もかもが破壊され、全てが失われてしまった街跡でした。
あの日、この山に避難した人たちはこの山の上から津波が町を飲み込んだ様子をどのような思いで見ていたのか・・・・。

山の上は神社が建っており、市街地を見下ろす場所にある鳥居のもとには被災者の方々を悼む花々が添えられていました。
ちょうど訪れたときにはその神社で鎮魂のための三味線、和太鼓による法要がなされていました。
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また、偶然に、国会議員の馳さんとお会いし、支援活動などの話をすることができました。

その後、建設中の仮設住宅の場所へ向かいました。市内の何箇所かで建設中ですが、私たちが訪れたのは公園だった場所に190戸の仮設を作っている場所で、6月20日から入居予定となっていました。
ただ、被災されている方が、市内には2万人とも言われており、その数の少なさを感じました。
posted by shuresp at 22:26| 第1回現地派遣報告

第1回現地派遣報告<河北ボランティアセンター・その2>

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午前9時30分、河北ボランティアセンター敷地内および周辺の復旧作業のお手伝いを開始。

センターの庭に積まれていた土嚢の修復と積み直しの作業からはじまりました。
一つ一つを点検し、口を縛り直したり、袋が破れているものは新しいものに詰め替えて、改めて積み直しました。

次は、センター横の道路脇に寄せられた瓦礫を集積所に集め、木材・プラスチック・金属に分別しました。
主に手運びによる作業で、まさに人手がものをいうといった感じでした。

また、山から川に流れ込む湧水が流れる側溝に積もった土砂をかき出す作業を行いました。
鍬やスコップを手に、少しずつ少しずつ水の流れを取りもどすような作業です。
小さな側溝に水が流れるようになっただけで、大きな感動を得られたのは不思議でした。

その他にも、ボランティアセンター周辺、隣にあるお寺の門前に散乱した瓦礫を拾い集め、集積所に運んだり、集められた土砂から木端を取り除き、土嚢を作る作業もやりました。

午後は、河北ボランティアセンターの前を流れる川の斜面に残された瓦礫やごみを拾い集める作業でした。

この日の作業はこのようなもので、時間は短く大きなことはできませんでしたが、こうして私たちにできること、その一歩をようやく踏み出すことができました。
posted by shuresp at 22:20| 第1回現地派遣報告

第1回現地派遣報告<河北ボランティアセンター>

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石巻市河北町にあるRQ河北ボランティアセンターは、ボランティア達による泥だし、瓦礫撤去、漁具の回収などのほか、地域の善意によって借りている施設を利用した子ども対象の夜の勉強会や遊び場・居場所づくりを行っている。

センターがある地域の特殊性として大川小学校での出来事がある。大川小学校には約110名の子どもが通学していたが、そのうち津波によって70人が亡くなった。
地震発生から津波がくるまでこの地域では約40分あり、裏山に避難していれば助かっていた可能性が高かった。
しかし、避難所に指定されている校庭に待機し続けたため、結果としてバス送迎を待たずに親が迎えに来た子どもと、裏山に避難した3名の子どもと1名の教職員のみが助かった。
「なぜ迎えに行かなかったのか」「学校は安全ではなかったのか」親たちの自責感や学校に対する怒り・不信感があるそうだ。
センターのある福地地域では、6人の子どもが亡くなり、残った子どもの数は10名未満である。

被災者(地)支援については、刻一刻と変化する現場のニーズに合わせながら、長期的に関わっていくことが大切である。
特に子どもとの関わりについては、大学生などがボランティアで子どもの話を聞いたり、遊び相手になることがあるが、一週間や土日などの短期間であることが多いため、仲良くなったところで、さようならということが多く、子ども達にとってどうなのだろうという問題提起をしていた。
posted by shuresp at 22:09| 第1回現地派遣報告

第1回現地派遣報告<仙台市若林区>

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5月1日、チャイルドライン宮城を後にした私たちは、仙台市の若林区に向かった。

仙台市若林区は仙台市の南東に位置する。
仙台市は5区あり、その一つで隣の宮城野区と併せて太平洋に面している。区を縦断する形で国道4号仙台バイパスが通っており、その西側が住宅地、東側が水田地帯となっている。

若林区は今回の津波で大きな被害を受けているが、その被害は水田地帯とそこにある住宅だ。
賑やかな仙台駅周辺から車で数分行くと若林区に入る。水田地帯に入ると次第に語彙が散見され、そのうち瓦礫が見えてくる。
住宅で残っているのは基礎部分と大きく破損した鉄筋コンクリートの建物だけだ。

海岸に向かう途中、荒浜小学校があった。荒浜小学校は避難した子どもたちと教員が屋上で助けを待ち、ヘリコプターで救助されたところだったと聞いた。
仙台市で一番の海水浴場とのことだが、鉄筋の公衆便所の建物は、その前を建物の高さと同じくらいの深さにえぐられていた。消防団の赤い消防用の車もあったが、引きちぎられるように破損しており、津波の破壊力の大きさを表していた。
防波堤の向こうの海岸は大きな瓦礫は無く、近く住宅地の一面の瓦礫と違って、すっきりしていた。
多賀城市の小学校で被災した教員にこの話をすると、即座に遺体の回収のため片付けたのではないかと言う。


大きな破壊力のある地震だけでも大変なことであるが、津波の途方も無い威力を感じざるを得ない場所だった。
posted by shuresp at 21:56| 第1回現地派遣報告

2011年05月11日

東京シューレ震災支援プロジェクト<第1回現地派遣報告>

東日本大震災の被災支援募金の呼びかけに応えて、多数の皆さんがご協力くださり、有難うございました。
おかげ様で、A募金・B募金あわせて450万円を超えた浄財が集まり、心より感謝しております。

その一部を活用させていただき、5月1日〜4日、仙台・石巻方面に、被災支援に行ってきました。
ボランティアセンターなど3箇所に物資を届けると共に、被災の様子や現在の支援状況など4人の方からお話をお伺いすることができました。
また、2日間にわたり、瓦礫・流木の撤去などの作業を行うと共に、作業の前後を活用して被災地や仮設住宅地の様子も見てきました。

詳しくは、報告を分担しましたので、日を追ってアップさせていただく予定ですが、ここでは、第一報として、とりあえず概説を報告させていただきます。

今回の参加メンバーは、スタッフは奥地を入れて8名、シューレ大学生5名、不登校新聞社1名の計14名でした。

1日目は、東京より2台の車で支援物資とメンバー7人を乗せ、早朝出発、道路渋滞も無く、昼過ぎには電車組7人と合流、仙台市青葉区にある宮城チャイルドラインに向かいました。
アパート風の3部屋と一階軒下は支援のダンボールが山ほど積んでありました。その後、津波被害のひどかった若林区の視察調査をしました。

2日目は、仙台の宿舎を朝5時半に出、石巻市の河北ボランティアセンターへ。
渋滞なく、1時間早く到着。まきばフリースクールのスタッフで子どもの居場所作りの常駐ボランティアである中山さんから、子どもの状況を色々聞くことができました。
その後、午後3時まで遊び場や川の瓦礫撤去などの作業をしたあと、石巻市の中心街を通り、高台の神社から市内を見、絶句しました。
また仮設住宅の現場を訪ねたあと、「フェアトレード東北」の代表布施さんにお会いしました。
発達障害やひきこもりの青年達の居場所を支えながら、ご自分の家も無くなった中、とりわけボランティア活動でも落ちこぼされるお年寄りなど、若者の話が強く印象に残りました。

3日目も朝5時半出発で河北ボランティアセンターへ。
渋滞なく早く到着したので、7割の子が死亡してしまったという大川小を訪ねました。
その後全国から集まってきた70人のボランティアと共に、牡鹿半島雄勝(おがち)の立浜という海岸で猟師さんたちが一刻も早く仕事ができるように祈りながらの瓦礫撤去作業を行いました。
漁師さんのお話を聞くことができましたが、まだこの村には電気も水も復旧していません。すさまじい風景も忘れられません。


全体を通して、現地に行かないと分からなかったことがいろいろ分かり、長期的支援のあり方を考える貴重な経験と状況調査ができました。
来週の詳しい報告を読んでいただきたいと思います。そして、今後も共に、復興を支えるご協力をよろしくお願いします。

東京シューレ理事長 奥地圭子
posted by shuresp at 14:27| 第1回現地派遣報告