2011年12月29日

12月24日 宮城県女川に行って、お汁粉の提供と交流をしてきました。

今回の震災復興支援の概要

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[力石 みのり]

12月24日に宮城県女川町に炊き出しに行ってきました。
今回参加したのはシューレスタッフが9人、シューレ大の学生さん4人でした。

これまでのシューレの震災支援とは少し異なり、
“女川町クリスマス運動会”という参加者1500人を想定した、大きなイベントでした。

このイベントの代表呼び掛け人は、サッカー日本代表松井大輔選手!

女川町は海に面した町で、津波で大きな被害が出ました。
多くの人が仮設住宅で生活していて、
今でも瓦礫が撤去されず、水に浸ったままの建物が残っている場所もありました。

そんな女川の子どもたちにクリスマスプレゼント!という意味と、
女川の伝統でもあった町民運動会をやろうという気持ちから、企画されたそうです。

松井選手をはじめ10数名のアスリート、ミュージシャンがかけつけていました。

運動会の種目は、プロサッカー選手とのサッカー対決のほか、
長縄、玉入れ、リレーなどでした。


さて。シューレはおしるこの炊き出しを担当。
おしるこは500食作れるように準備しました。
あんこは東京シューレの仕事体験でお世話になっている鯛焼き屋さんにご協力頂きました。

クリスマスということもあり、みんなでサンタの衣装になりました!(大会実行委員会より支給)

おしるこは、その場で食べて頂いたのはもちろん、
仮設住宅に持って帰っていった方もいました。
皆さん、こういった炊き出しはとても楽しみにされてるそうです。



参加スタッフより=======

[石田歩]

 女川の町は、とても綺麗なところで、海沿いの景色もものすごく綺麗なところですが、地震と津波の爪痕がものすごく、その悲惨さを肌で感じました。

 炊き出しのブースでは、地元女川のサッカークラブに入っている高校生がお手伝いに入って下さいました。
 卒業式の次の日に震災に遭い大変な思いをしながらも、幸いにして家族や親戚も皆さん無事だったそうで、自分が所属しているクラブチームの小中学生のために、イベントのお手伝いに来られたようでした。

 当日は、多くの方々の協力があってこそ実現した大きなイベントで、地元の婦人会の豚汁作りの方々と、道具を貸し借りしながら、交流を持つことができました。
 豚汁もカレーもとても美味しく、炊き出しに行ったはずの私たちの方こそ、たくさんご馳走になってしまうほどでした。
 帰りがけに、おしるこを手にとって下さる参加者の方々が多く、当日作った量を完食することができました。


[本間周子]

 今回、東日本大震災が起こってから初めて被災地に行くことができた。
 仙台駅に着いた時は、東京とあまり変わらない様子だったが、翌日、車で女川へ向かうと、途中から津波の跡と見られる光景が徐々に増してきた。
 1階がドアも何もなくなり、空洞になっている建物、ひっくり返って横倒しになり、底が見えてしまっている建物、おそらく何か建っていたであろう更地。
 さらに先へ進むと、今度は瓦礫の山があちこちに見られるようになった。
 震災からもう9ヶ月以上経ったが、地域によってかなりの差がある。

 今回のクリスマス運動会の会場は、その奥にあった。
 そしてすぐ横に仮設住宅があった。

 私たちはお汁粉のブースを出したが、用意をしていると、仮設住宅から来られたお年寄りがたくさん並び始めた。
 今回は子どもたち優先だと言われていたので、しばらく待っててもらわなければいけなかったが、娯楽も少ないであろうこの場所で、寒い中、お汁粉を求めて並ぶ姿に、楽しみにしてくれていたことを感じた。
 だいぶ時間が経ってから提供することができたが、少しでも気が紛れたり楽しさを感じてもらえたなら幸いである。

 今回の主役である地元の子どもたちは、スポーツやプレゼントや有名人との交流で楽しみ、とても元気そうだった。
 お汁粉も多くの子が食べてくれた。

 今回私は非常に短い滞在だったが、長い間地道に支援活動を続けている方々に敬意を表したいと思った。


[今田 万美子]

 女川町へは仙台駅から東方面へ車で約2時間の道のりです。

 朝は暗いうちから、だんだん昇っていく朝日に向かって車を走らせ、夕方は海に入っていく大きな金色の夕日に向かって帰途につく、そんな一日でした。

 震災から9ヶ月以上経ってからの、初めての被災地行き、そんな立場なりの私の感想しか書けませんが、一つ印象に残ったのは、女川総合体育館の背後にひっそりと建ち並ぶ仮設住宅でした。

 高台にあったためにかろうじて残された体育館の、さらに山側にその仮設住宅は建てられていたのですが、そこに辿り着くまでの道は、両側に瓦礫が高い壁となって積まれていたり、更地になってしまったりしていて、町の様相は奪われてしまっていました。
 その先にある仮設住宅は、あくまで地理的な印象ですが、周囲の町との連続性がないように感じました。(その周囲の町も、同じような状況かもしれません。)

 住民の方たちが、孤立した気持ちにならないだろうか、切り離されている気分にならないだろうか、そういう気持ちにさせてはならないのだがどうすればいいんだろう、ということを思わされました。

 シューレは今回、クリスマス運動会というスポーツイベントの後方応援隊といった形で、子どもたちや住民の方たちにお汁粉を配り、他のボランティアグループのカレー、豚汁と合わせて、おいしいフルコースを楽しんでもらうという趣向でした。
 実際どれもおいしく、喜んでもらえ、青空と太陽の下、気持ちよい炊き出しができました。

 一つ心残りは、大きいイベントのこと、時間が読めず、出来立て熱々のお汁粉をお渡しすることが、常にできたわけではなかったということでした。

 東京に戻ってからも色々考えたのですが、炊き出しというのは、単発的に行われることが多く、実際、シューレも何回かやってきてそうだったように、その都度、場所や、人数規模や使える道具、調達できる材料、炊き出しの位置づけや連携する人たちなど、条件が違います。その中で、どんな風にやったらみんなにいいタイミングで熱々のものを提供できるのか、考えると、これは奥深いというか、色々追求したくなってくるテーマだと思いました。

 子どもたちに「お汁粉って何?」と聞かれたり、おじいさんおばあさん達とは、付け合わせの塩昆布を「これ何ですか?」「ひじきかと思った」「え、こちらの地方では塩昆布食べられないんですか?」なんていうやり取りもあったり、小さな新鮮な発見もあった一日でした。
posted by shuresp at 21:37| 第9回現地派遣報告

2011年12月02日

東京シューレの子どもたちと現地に行ってきました。


(報告:佐藤信一)


 10月28・29日の2日間、東京シューレ会員6名、OG1名、シューレ大学生1名、奥地ほかスタッフ3名の計12名で、宮城県石巻市へ支援活動に行ってきました。

 事前に石巻災害ボランティアセンターの阿部さんより、震災直後から現地で支援活動を行っている「NGO未来」を紹介していただきました。
 代表の藤吉さんとのやり取りの結果、今回は2つの仮設住宅での炊き出しを行うこととなりました。
 対象の仮設住宅は、石巻専修大学から車で数分のところにある開成団地(約70世帯)と南境団地(約300世帯)となり、合計で500食分を作るのに必要な食材やその他機材の準備を進めていきました。



 初日は夕食を6時に提供できるよう計画していましたが、直前の情報で日が落ちるのが早いため6時には食べ終えて解散するのがベターであると知らされ、東京から車で向かったメンバーが到着次第、急ピッチで用意を始めることとなりました。
 メニューは、トン汁・煮物・白飯・おしんこでした。
 電車で向かった会員の子どもたちが到着すると、各家庭を訪問し、炊き出しのお知らせと共にお手伝いをお願いして回りました。
 すると、何人かの女性たちがお手伝いに来て下さいました。
 藤吉さんから、炊き出しそのものの役割が震災直後の緊急支援的なものから、仮設住宅の住民間のつながりをつくるきっかけという意味合いに変化していることを事前にお聞きしていましたが、それを感じる場面でした。
 住民や未来の方々の協力を得ながら、無事4時過ぎには準備ができ、多くの方々に食べていただきました。
 その後は、翌日炊き出しを行う南境団地に向かい300世帯の各家庭にお知らせを手分けして配布しました。

 2日目は、お昼の炊き出しを行いました。
 メニューは、中華丼・ポテトサラダ・白飯・おしんこでした。
 初日の開成団地は規模もそこまで大きくなくアットホームな印象でしたが、南境団地は300世帯ということで、一列に並んだ仮設住宅が何十棟も連なっている光景が印象的でした。
 この日は、未来の方々の他に、神奈川県社協からのボランティアの方々も加わり準備を進めていきました。
 無事終了した後は、子ども達を対象としたビンゴ大会を実施したり、ギターやカホンによる演奏も行いました。






 最後は、みんなで日和山公園に向かい、視察しました。子ども達は、それぞれ真剣なまなざしで、まだまだ被災の跡が生々しい現実を目の当たりにしていました。



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 以下に、参加した子どもたちから聞き取った感想を掲載します。

松本萌
「私は、最初は現地の人とあまり交流ができないのではないかと思ってた。けど、炊き出しの準備をしている間に、おじさんがおにぎりを握ってくれて渡してくれた。人がとても暖かかった。2日目の時には、仮設住宅に住んでいるおばあちゃんが一人でおじいちゃんの分も運ぶんだと言ったので、大変だと思って一緒に手伝った。その時に、改めておばあちゃんが、震災の話をしてくれて、仮設に住んでいる人たちは家が流されてしまっていることは知っていたけど、ちゃんと考えていなくて。それで、おばあちゃんが経験したことを話してくれた時、ものすごく悲しい気持になった。泣きそうになった。それから、地元の子ども達と遊んだビンゴがとても楽しかった。ちょっとは元気をだしてくれたかなと思った。」

荒木さくら
「最初の頃は、元気づけてあげようと思った。それから現地の人達との交流を楽しみにしていった。炊き出しの時に、ある夫婦が仮設住宅から食べに来てくれて、家まで運んだ。それが意外と遠い仮設住宅で、こんな所から来てくれたんだと思った。「きれいな空だね〜」とか、たわいもない話をした。他の住民の人がすれ違った時、おばちゃんが「あそこで炊き出ししてるんだよ」と微笑みながら話をしていたとき、初めて交流ができたなと思った。初日の夜に、翌日の炊き出しのチラシ配りをしたとき、仮設住宅全体がシーンとしていたことがすごく印象に残っている。さみしい感じがした。昼間は賑やかだったこともあるから、そのギャップに震災の被害の深刻さを実感した。日和山公園からの風景は、とても記憶に残っている。私は、元気づけたいと思って、ビンゴゲームも楽しくやろうと思ったり、あいさつもちゃんとやろうと思っていたけど、逆に現地の人達に元気づけられた。「ありがとう。」って言ってくれたり。一日目が終わった時「明日も来るね」と言ってくれたり。一日目は緊張だったけど、二日目は楽しくできた。もう一回行きたいと思った。

ケリー・ブランドン
「To me, everyone was sad. So, I didn’t want to be sad, because that wouldn’t be good for the people of the Tohoku. So I try to be strong or take a leadership but I found that the people of Tohoku were already standing up on their own. So, I found that surprising.
「僕にとって、すべてが悲しかった。だけど僕は悲しくなりたくなかった。なぜならば、それは東北の人々にとっていいことではないから。だから、僕は強くなったり、リーダーシップをとっていくべきなのではないかとも思った。でも、僕は東北の人々はすでに、自分たちの力で立ちあがろうとしていることを知った。それは、僕にとって驚くべきことだった。」

マガリン・アンドリュー
「I feel sad. I saw there was no house from Hiyoriyama park. I was worried about all of children and youth. Everybody is natural. I pray the god. I was happy because I could help the people. I remember that playing with kids. So I was happy.」
「僕は悲しかった。なぜなら、日和山公園から見える家は無かったから。僕はすべての子どもや若者たちが心配だ。地元の人達は、とても自然に接してくれた。僕は、人々を手伝うことができて幸せだった。子ども達と遊んだことも覚えている。それも僕はうれしかった。」

弓納持有隆
「ボランティアって、長期的な関わりをしていくことが一番だと思うから、僕らみたいに2日間のボランティアってそんなに役に立てないと思っていた。だから、地元の人達からもその場限りの人達と見られてしまうかなと思っていたけど、実際にはそうではなかった。1日や2日でも、地元の人達に喜んでもらえることができるなら、これからも続けていきたいと思った。」

posted by shuresp at 17:11| 第8回現地派遣報告