2011年08月06日

「ふくしま」の声を聞く −郡山現地調査−

〔奥地圭子・朝倉景樹〕


 福島のことは、気になりながら、7月になってやっと郡山を訪問することができた。福島登校拒否を考える皆さんにとてもお世話になった。

 福島の不登校の子どもを持つ親の会の方に、避難所と仮設住宅を案内していただきました。

 私達が訪問した避難所は県の複合イベント施設のビッグパレットふくしま(福島県産業交流館)です。大小さまざまなホールや会議室などがある大きな施設です。

 ビックパレットふくしまは福島第一原子力発電所から近い富岡町と川内村が役場の機能を移しているところです。避難所としても規模が大きく、最も人が多かった時は2500人もの人が非難されていました。私達が伺ったのは、被災から4ヶ月以上経った7月28日でしたが、約250人の方がおられました。この日の時点でも、通路部分に生活スペースを持っておられる方もいて、一時は廊下まで一杯の人が溢れていたという状況が想像されました。

 生活スペースは部屋によっては高いパーティションで区切られていて、プライバシーが保ちやすくなっていましたが、別な場所では30センチほどの仕切りで生活部分を区切っている方たちもいました。そして、公共スペースも広く取られるようになっており、職業斡旋のコーナーや、ボランティアを募るコーナーなどもありました。

 ビッグパレットには広い駐車場がありますが、地元郡山のナンバープレートでなく、富岡町や川内村の地域のいわきナンバーの車がたくさん駐車していました。この避難所で暮らしている方の車はもちろん、ホテルなどの宿泊施設で避難生活をされている方々がそこに十分な駐車スペースが無いために、ビッグパレットの駐車場に車を置いている人もあるのだと聞きました。近くのあるホテルでは50室のうち30室に被災者の方が入出しているとのことでした。1日5000円の費用を行政が負担しているとのことでした。

 2箇所の仮設住宅にも案内していただきました。そのうちの一つはビッグパレットの北側にある仮設住宅で2DKの住宅が約150戸建てられているところです。入居はもう始まっていました。案内してくださった方の話では、希望が集中する仮設住宅とあまり希望が無い仮設住宅とがあるそうです。その違いは、富岡町や川内村の臨時の役場のようなところから離れてしまうと情報も物もこなくなってしまうのではないかと考える人が多いのではないかと言うことでした。

 避難所になっているビッグパレットのピロティのようなところには、その時々の放射線の値が表示される電光掲示板もあります。行政の発表では1マイクロシーベルト前後ですが、この電光表示は室内を測っているため、一桁小さい値が表示されていました。福島県中央部にあたる中通の中核都市、郡山は原子力発電所がある浜通りから人が避難してくるところになっています。しかし、同時に学校の校庭の土を削って放射線量を減らす必要を感じる場所でも有り、人々が放射線の影響を意識しながら、不安を持ちながら暮らしていると感じました。

 親の会が運営している「んだねカフェ」で、会につながっておられる計6人の方のお話を聞くことができた。それは、地震・津波のすさまじさを石巻や牡鹿半島で見てきたのだが、それとはまた異なる重さに圧倒されてきた。福島原発とは、50qも離れている郡山市でさえそうなのだ、とあらためて思った。

 3月11日は、雪が降り、とても寒い日だったそうだ。

 Aさんは、夜勤明けで自宅に戻り睡眠をとって起床したとき、左右に大きな揺れがきた。おさまったと思ったらまたきた。カギが壊れて、家中の窓や戸が自然にあいてしまった。近所の家にも手伝ってやっと夜8時ごろ職場のホテルにつくと水道管がだめになってジャージャーもれて、営業もできないので、無料で宿泊してもらうことになった。3日後テレビで原発の水素爆発を知った。始めはそんなに深刻と思わなかった。50q離れているから、と。それから2時間は、水がこないので給水車で並んだり、ガソリンがなく動けなかった。

 今は、こう思っている。「福島の野菜も果物も避けられている。でも、東京の人間が安全なものしか食べないのはおかしい。本当は安全なものを福島人にこそ食べさせてほしい。東京が福島を引き受けてくれていいじゃないか、と思う。だって、東京の電力を賄うためにあんな危険なものを置いたんだから」と。

 Bさん夫妻は、20代のとじこもりの息子さんが家にいる時大地震がきたそうで、自分たちは車を運転していて、ハンドルもきかない状態になった。やっと帰宅すると、息子は庭にでていた。その日まで、口を聞かなかったのに、地震のおかげで、一緒に寝るようになったし、会話が戻った。強迫神経症や家庭内暴力がひどくて悩んできた時期もあった。でも、今日も「郡山、行ってきたほうがいいよ。」と言ってくれた。息子は、原発に敏感で、ネットで調べるなどして詳しい。「どうせ俺たちはモルモット」「逃げたほうがいい」といつも言っている。

 農家なので、悩む。キャベツ農家で有機でやっている人が自殺した。気持ちわかる。うちは5000ベクレル以下なので米を作っていいのだがやはり作るかどうか迷った末、今作っている。果樹を作っている家は、樹皮を1枚1枚はがしていた。桃だって売っているが、分からない。悲しいけれど、スーパーでは、地元のもの程注意している。いつもいつも頭の中が面白くない。野菜作っても捨てるしかない。

 Cさんは、外出先からマンション9階の自宅に戻った時、TVで緊急地震速報を聞き、まもなく、あっちよろよろこっちよろよろする大変な揺れがきた。部屋中のものが落ち、倒れ、外に出られなかった。原発のことはTVで知った。三春の人たちは、ヨウ素剤の配布が早くて持って逃げてきたので、自分も家族に飲ませた。

 Dさんは、職場で地震に遭い、5時に職場を出てやっと帰宅した。閉じこもりの20歳の息子が家にいたが、外に飛び出して助かった。壁は落ち、3日間電気もこず、外へ泊めてもらい、戻ってからは、3人で一部屋に寝るようになった。水が出ない間は、トイレにとても困った。14日の爆発は、外を歩いている時、通りがかりのおじさんが「大変だ、何とかがくるぞ。すぐに家に入れ。雨にぬれるな」と大声で言っているので知った。子どもを安全な所へ避難させ、親は仕事上残っている人、一家中で思い切って山形へ行ってしまった人もいる。「原発離婚」がすでにある。「県外に出ていくなら離婚して出ていけ」と言われたり、家族会議にかけられたりもある。初乳を飲ませるかどうかで悩んでいたり、将来結婚適齢期になっても福島出身者ということで断られる可能性もある。

 Eさんは、保育園に勤めているが、運動場に重機が入り、表土を削っていった話、ガラスに強くホースの水をあて除染した話、効果があるとして、2ℓのペットボトルに水を一杯入れ、2列に窓際にぎっしり並べている話をされた。学校は、4月10日に始まり、他校を借りて始めたところもある。運動できなくて、階段ダッシュで運動している学校もある。幼稚園の子どもが他県へ多く出ていき、経営難になっている。学童保育では外遊びをやっていたが、親が放射能が心配でやめてくれ、というのでできない。幸いなことは一つあって、県議会が超党派で、全員一致で「脱原発」を決めてくれ、知事が脱原発を宣言できたことだ。

−以上のような状況の中を生きる事は大変だ。福島は世界中に悪い名として印象づいたが、東京のための電力なのだから「東京原発」という名称だったらどうだったろう」という話。「どんな支援を望むか」の質問に「それは、こっちが考える事なんだろうか。」という答えが心に残った。
posted by shuresp at 09:28| 第3回現地(福島)報告